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トップ > image > image - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2009年1月9日 10時)
[アニメーション]アパートの猫
Le chat d’appartement de Sarah Roper
たまたまつけたケーブルテレビのCN(CARTOON NETWORK)で、新人クリエーターの育成に力を入れているフランス老舗アニメーションスタジオの Folimage が発掘した、ヨーロッパ出身の新進気鋭のクリエーターが作る作品をまとめたショート・アニメコレクションをやっていて、思いがけず、イギリスの女性監督サラ・ロペール(Sarah Roper)の「アパートの猫」に見入ってしまった。猫っぽくない顔の猫が主人公の佳い作品だった。猫ではないが、思わず家族が留守中の風太郎の様子を想像した。1/17(土)深0:00〜1:30に再放送される。ちょっと調べてみたら、YouTubeに作品紹介のビデオがアップされていた。
アパートの猫 (Le chat d'appartement)
「TOLLYWOOD short film theater」に丁寧な紹介もあった。
アパートの猫
(Le chat d'appartement)
監督:サラ・ロペール
アニメーション:サラ・ロペール
7分、手書アニメーション、1998年、フランス
大都会のアパートに飼われた家猫は、ご主人が外出してしまうと、窓の外に広がる空を眺めて暮らしている。向いのビルの屋上に、鳥たちが集まり、老夫婦が大切に手入れをしている庭を見つけ、行ってみたくなる。こっそりと部屋を抜け出す。その先には、自動車や人々が激しく行き交う大通りを命からがら渡り、窓掃除のクレーンに誤って乗ってしまったりと大冒険が待ち受けている。
あなたが留守中に一人ぼっちになった愛猫を思い描くと、ホロリと涙してしまうかも。女性監督らしい心遣いが嬉しい小品。
UPLINKから「アパートの猫」が収録されたDVDピクチャーブック「プチシアター VOL.2」も発売されていた。
http://www.uplink.co.jp/cgi-bin/shop.cgi?action=detail&cat_key=1&id=298
作者:elmikamino
更新日:2009年1月9日 0時0分
[人生][言葉]言葉が自ら弾け飛んで
託された思いに押しつぶされたような言葉に付き合うのに疲れ果てた時、言葉が自ら弾け飛んで、私の思いなんて、笑い声とともに部屋の空気や壁の中に消えていく、そんな言葉との儚い連帯のような感覚が呼び覚まされる時、幸せな気持ちになる。
かっぱ
えび せん。。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月9日 0時0分
[散歩][写真]ゴジュウカラ
曇。寒い。今年の寒の入り(小寒)は1月5日だった。大寒は1月20日。
裏山から樹をつつく小さな音が聞こえた。アカゲラならもっと大きな音をたてる。小さな影があちらこちらで素早く移動するのが見えた。目を凝らすと、青灰色の背中と眼を通る黒い線(「過眼線」というらしい)が印象的なゴジュウカラ(五十雀, Eurasian nuthatch/Wood nuthatch, Sitta europaea)だった。雀よりも一回り小さい。樹の幹を逆さに降りたり、横枝の下側を伝ったり、軽業師のような身軽で素早い動きに、カメラの目がなかなか追いつかなかった。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月9日 0時0分
[情報デザイン]カラーユニバーサルデザイン(CUD)
鮮やかな紅葉を味わえないのは仕方ないとしても、デジタルカメラのバッテリーの充電器の「充電中」(オレンジ)と「充電完了」(グリーン)のランプの色が識別できないときや、鉄道やバスの路線図の色の違いが識別できないときや、せっかく訪れたサイトやブログの背景色と文字色が混同して文字が判読できないときには、どこか腑に落ちないものを感じてきた。赤緑色弱の私にとっては「デザイン」の一環である一定の配色が肝腎の「情報」の伝達を決定的に阻害することがある。その気になれば、近くにいる人に尋ねたり、ブラウザの設定を変えたりすることなどによってある程度は対処できるものの、多くの場合その面倒を避けて、結局勘に頼ったり、情報を得るのを諦めることが多かった。
近年、日本国内では500万人を数えるといわれる色弱者に配慮したカラーユニバーサルデザイン(CUD)の動きが公共施設の各種の表示や製品のデザインにおいて少しずつだが着実に広がっている。2004年に設立されたNPO法人カラーユニバーサルデザイン機構(Color Universal Design Organization)の功績が大きい。略称はCUDO(クドー)。充実した内容の公式サイトはこちら。
「設立の経緯」には、色盲・色弱者をめぐる差別の構造と歴史を踏まえて、カラーユニバーサルデザインの火付け役となった自身色弱者である二人の生物学者による啓発活動から始まり、その地道な活動がやがて多くの賛同者、協力者を得て、やがて機構設立という実を結ぶまでの道のりが簡潔にしかも説得力をもって書かれている。カラーユニバーサルデザインに関する最新情報を提供するブログも開設されている。
参考:
作者:elmikamino
更新日:2009年1月8日 0時0分
[散歩][写真]キタキツネの足跡?
今朝、原生林の中にキタキツネ(北狐, Ezo red fox, Vulpes vulpes schrencki)のものと思しき足跡を見た。
そういえば、もう何年もキタキツネの姿を見かけない。この土地に引っ越してきたばかりの頃は自宅の周辺でも単独あるいは親子のキタキツネをよく見かけたものだった。裏山にねぐらがあるようだったが、おそらく山では十分な食料が得られなかったのだろう。人家が密集した場所でも、庭伝いに素早く走り抜ける姿をよく見かけた。夜の散歩の時に、暗がりでばったり出会う度に、風太郎は本能に火がついたように、全力で追いかけようとした。何度もリードごと引っ張られて転びそうになったものだった。この十年間、環境はそんなに変わっていないように見えるのだが、見えないところで大きな変化が起こっているのだろうか。少し調べてみたら、道東を中心にして、疥癬(かいせん)という皮膚病の感染によって激減した地域もあったという。ただし、感染の経緯に観光客の餌付けなどの人的要因も絡んでいるという説もあって、実情はなかなか複雑なようだ。20年ほど前に横浜から札幌に移住してきたカメラマンの大橋弘一さんがキタキツネとの出会いについて書いている。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月8日 0時0分
[散歩][写真]快晴
ひさしぶりに原生林、タンポポ公園まで歩く。
シラカバ(白樺, Japanese White Birch, Betula platyphylla var. japonica)
オオウバユリ(大姥百合, Giant lily, Cardiocrinum cordatum var.glehnii.)
エゾノコリンゴ(蝦夷の小林檎, Manchurian crab, Malus baccata var. mandshurica)
作者:elmikamino
更新日:2009年1月8日 0時0分
[メモ]松浦泉に導かれて
かつて詩人の吉増剛造にこう語らせた編集者の松浦泉が気になっていた。
もともと自分の詩はつねに蠢動(しゅんどう)し、突然変異のようにして生まれてくる異形の詩で、これまでずっと、それを無理矢理に詩集という形の楔(くさび)でかろうじてつなぎとめてきたようなものだ、と詩人は自らの歩みを振り返る。処女作から数えてこれ [2004年に出版された『天上ノ蛇、紫のハナ』を指す] が十八冊目の詩集になるが、これまでは必然的に、印刷文化との果てしない闘いの連続だった。「特に雑誌に掲載される場合は、締め切り間際に、稲妻が走り、火事場にいるような異様な瞬間が訪れるんです。ファックスが出始めたころは、それによって生まれる隙間を最大限に利用したりして、自分も担当編集者も悲鳴が出るような、大変なことばかりやってきました。でも、印刷所に出張校正に行っている非常時が、実はいちばん事件が起こる苛烈な時間なんですよ」(中略)「昔は馬みたいなものが走っていたとすると、いまはコガネムシみたいなちっちゃなものが疾走しているんですね。馬の速さと、虫の瞬間的にパッパッと動く機敏さの違いはあるけど、本質的なスピードは変わっていない。以前は主に水平や垂直の方向だったものが、隅に行ってみたり斜めに行ってみたり、あらゆる場所に瞬時に移動する、そういう運動になってきた。コンピュータ時代になって、ちょっと息ができるようになりました。そのせいか、頭の中は以前と変わらずに動いているんだけれども、作品が出てくる空気が少し優しくなってきたかもしれない」(中略)「デリダには共感することがいっぱいあるんです。彼は車を運転して大学まで通っていたんだけど、車の中に授業や論文のためのメモを貼り付けていて、運転しながらもメモを取り続けていたらしい。その感覚がものすごくよくわかる。車の前を何かがパッと横切るとか、事故寸前のような瞬間にも何かを書くということ。そういうことってあるんですよ。僕の表現でいえば、車内を虫が突っ走っていくような……」(中略)「もう書けない瞬間がくるのかと、むしろ楽しみにしていたぐらいだけど、どうもそうはならないんですね。小説にも行かず、評論を書くわけでもなく、異様なテクストを書き続けている。好奇心の働きがちょっと人と違っているのかもしれない。自分が生きようとすることに忠実で、それとともに出てくるテクストを書いている、そういうことなのかもしれない。でも必ずしも人間の視点で書かれたテクストじゃなくて、ある時は虫であったり、動物であったり、男のくせに女になってみたり……。次の壁に映るものの方へどんどん行っているんですね。おそらく狂気も含めたいろんなものを相手にしながら、少しずつ書き続けることの困難を克服してきたんじゃないかな。」
次の文章を読んで、ああ、松浦泉はこんな文章を書く人なんだ、と腑に落ちるところがあった。
アジアって、なんだろう? どんな場所? どんな人たち? どんな歴史のなかに、どんな現在が息づいているんだろう? いいえ、そうではなく。中国からインドへいたるおおきなひろがりをアジアと呼ぶけれど、 アジア、そのややこわばった言葉をほどいて、 さまざまな国のさまざまな名を呼び、 そこにある複数の表情を、もっともっと感じてみたい。 そのなかへ、「私」を、放ってみたい。 そこに生き、動いている、水。 「私のなかのアジア」は、たとえば、いま、そのなかにある。
2004年の篠原弘子との二人掛かりでの狸爺ゴダールへのインタビューでは、軽くいなされたようだが。
JLG:ところで、16対9という、日本発で世界中で採用されつつある画面サイズは、あなた方の目の形から来ているのでしょうか? 日本人は世界を横長に見ているということでしょうか。あそこにあるあの木を、日本人は私より横長サイズで捉えているとか?
聞き手:あなたはスタンダードサイズのほうがお好きなんですね。
JLG:私は棺や蛇のような横長サイズよりクレジットカードの形のほうがまだしも好きです。そういえば、いまあなた方は笑っていますが、日本には「箸が転んでも笑う」ということわざがあるらしいですね。これは大変おもしろいことわざですね。私自身は「スプーンが落ちても笑う」かどうかわかりませんが。
聞き手:日本では、アンナ・カリーナ時代、政治の季節、『パッション』以降と、大きく分けて3つの時代にそれぞれファンがいるような気がします。でも、あなた自身が変わったわけではなく、世界のほうが変化して、それがあなたの作品の変化に繋がったような気もするのですが。
JLG:その通りです。でも、世界は変わったけど、実はそれほど変わってもいない。2000年はそんなに長い年月ではない。20人のお祖母さんが生きてきただけの年月ともいえる。
聞き手:映画は世界を救えると思いますか?
JLG:それは聞いてはいけない質問ですね。
その篠原弘子のプレノンアッシュ(配給は昨年で止まったようだが)の公式サイトに掲載された、2005年12月2日に名古屋シネマテークで行われた狐男爵蓮實重彦の講演と、2006年3月19日にシアターイメージフォーラムで行われた蓮實重彦と青山真治の対談における蓮實の発言は、流石に狸爺を容赦なく背後から撃つような切れ味のいい内容だった。
すると、20世紀の問題を論じる度に、彼がことあるごとに口にする一つの名前にゆきつきます。シモーヌ・ヴェイユという名前です。シモーヌ・ヴェイユはユダヤ系のフランス人ですが、おそらく集団というものを信じることができない人でした。集団というのは必ず堕落する。ですからカトリック教団にしても、彼女は信じることができなかったわけですし、人民戦線の頃の社会主義的な連中のことも信じることもできず、そして殆ど自死同然にイギリスで餓死する、信仰を持たない信仰者のような人なんですけれども、これは他の人の言うことに耳を傾けない、ひたむきな、ただ自分の信ずることのみを信じて自死同然に破滅する人物です。このヴェイユ的な存在に対するゴダールの憧憬というか、自分もああなりたいけれども、ああならずに生き延びてしまったという悔恨の情のようなものがいつも出ているような気がします。
青山 なるほど。彼は常に孤立しよう、しようとしているわけですよね。どんな場に身をおいても必ず孤立する方向へ積極的に自分を持っていこうとする、一種の、何でしょう、……裏返しというか、マゾヒズムなのか。
蓮實 贅沢ですよ。
青山 贅沢なんですかね。
蓮實 ブルジョワジーの贅沢以外のなにものでもないと思います。
青山 孤独であることが贅沢となることが、彼にとって今必要なんですかね。ずっとそうなんですかね、あの人は。
蓮實 それが彼の唯一の自己同一性の主張だと捉えていたと思います。彼は最近、時々「私には仲間はいない」とかなんとか言いますけれど、いれば彼は排除すると思います。
青山 常にそれをやってきたわけですよね。
蓮實 その点、私は、彼はやはりこの世界には生かしがたい存在だという気持ちを非常に強く持っておりまして、そのためには観てやらなければいけないと、これもいささかマゾヒズム的な…
作者:elmikamino
更新日:2009年1月7日 0時0分
[生活][散歩][写真][神話]クロマチック
近所の家庭菜園の様子
病気によって人はその健康状態を悪化し、やがてそこから回復する。漁に使う毒と同じように、それは漸進的に効果を現す。どちらも生と死の中間にある状態を推移させるものであり、ルソーがギリシア語に再発見した意味に沿えば、これらはクロマチックな存在なのである。もし病気と毒が半音階的な存在ならば、人間の感覚にとってクロマチックな現象である虹と共通の属性を持つことになる。
港千尋『レヴィ = ストロースの庭』の第二のテクスト「写真と音階」より。064頁
ルソーがギリシア語由来の「クロマチック」に再発見した意味とは、多くの人にとって普段は分断されたに等しい色の知覚(「色彩」)と音の知覚(「半音階」)の間には実は両者をつなぐ、さらには生と死をつなぐ裏道(「中間」、「間隔」、「差異」)があるということだった。それはおそらく私が物心ついた頃にはとうに奪われ、その後色んなきっかけを通じて気づかされ、奪い返そうとしてきた、ある普遍的な認識であり、失われかけている「世界」への扉でもあるような気がする。
風邪で一日寝込んだ間に、苦しいながらも、思い通りにならないカラダをまるでのたうつ蛇のように感じたり、発熱のせいで感覚の麻痺した全身の皮膚が虹色に変化する発光体のように感じたりして愉快だった。
関連エントリー:
作者:elmikamino
更新日:2009年1月7日 0時0分
[生活][写真]カムバック
おとといの夜、とうとう起きていられなくなり、寝込んだ。「風邪」とともに去りぬ、だった。昨日は一日中ほとんど寝ていた。今朝、目覚めたら、嫌な汗を大量にかいていた。熱は引き、体が少しは言うことを聞きそうだった。雪だるま3号はまだなんとか健在だった。よし、よし。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月6日 0時0分
[生活][写真]可愛くない雪だるま3号
近所ではお世辞ながら「すごい! でかい!」と評判の雪だるま3号は、家族には「可愛くない」と評判がよろしくない。可愛くない理由はたくさんあるようだが、鼻の高さが「鉄人28号」を継承しているからかもしれないと思っている。そんなことはさておき、雪だるま3号は、すこしとけて一回り小さくなったが、なんとか基本形を保っている。明日の朝まで保つかどうか、微妙なところである。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月4日 0時0分
[アンソロジー]ジョナス・メカス・アンソロジー
Jonas Mekas, 1998
- ジョナス・メカスがコトラーに繋がる(2008年01月10日)
- Langasさんの「リトアニアへの旅の記録 2001年夏」:日記と本の境界の揺らぎ(2008年01月13日)
- Nowhere=Paradiseに対する違和感(2008年01月14日)
- 生命維持装置としての詩:『アイギ詩集』(2008年01月17日)
- 愛は不在そのものである(2008年01月18日)
- 映画と写真の「間」:ロラン・バルトとジョナス・メカス(2008年01月20日)
- リトアニアの悪魔とフィンランドの悪魔(2008年01月20日)
- 夢という記憶(2008年01月21日)
- ジョナス・メカス「森の中で 1」(2008年01月22日)
- 『セメニシュケイの牧歌』のクロライチョウ(2008年01月23日)
- 『メカスの映画日記』と『Movie Journal』(2008年01月23日)
- 追憶、失われることの意味(2008年01月24日)
- イブの秘密:楽園の断片(2008年01月25日)
- 日記の整理という仕事(2008年01月26日)
- ジョルダーノ・ブルーノの素描を通して(2008年01月27日)
- リトアニア語とカント(2008年01月27日)
- キリストという思想(2008年01月27日)
- アブラハムかオデュッセウスか(2008年01月28日)
- 逃走=闘争の線(2008年01月29日)
- 前衛と後衛の間の距離(2008年01月29日)
- エジプトへの回帰の意味(2008年01月30日)
- 白い暗闇、黒い光 Jonas Mekas(2008年02月01日)
- ウォーホルとマチューナス:笑いの哲学(2008年02月02日)
- Warhol and Maciunas: Jonas Mekas(2008年02月03日)
- Jonas’ COOP Speech: Jonas Mekas(2008年02月03日)
作者:elmikamino
更新日:2009年1月4日 0時0分
[アニメーション]アパートの猫
Le chat d’appartement de Sarah Roper
たまたまつけたケーブルテレビのCN(CARTOON NETWORK)で、新人クリエーターの育成に力を入れているフランス老舗アニメーションスタジオの Folimage が発掘した、ヨーロッパ出身の新進気鋭のクリエーターが作る作品をまとめたショート・アニメコレクションをやっていて、思いがけず、イギリスの女性監督サラ・ロペール(Sarah Roper)の「アパートの猫」に見入ってしまった。猫っぽくない顔の猫が主人公の佳い作品だった。猫ではないが、思わず家族が留守中の風太郎の様子を想像した。1/17(土)深0:00〜1:30に再放送される。ちょっと調べてみたら、YouTubeに作品紹介のビデオがアップされていた。
アパートの猫 (Le chat d'appartement)
「TOLLYWOOD short film theater」に丁寧な紹介もあった。
アパートの猫
(Le chat d'appartement)
監督:サラ・ロペール
アニメーション:サラ・ロペール
7分、手書アニメーション、1998年、フランス
大都会のアパートに飼われた家猫は、ご主人が外出してしまうと、窓の外に広がる空を眺めて暮らしている。向いのビルの屋上に、鳥たちが集まり、老夫婦が大切に手入れをしている庭を見つけ、行ってみたくなる。こっそりと部屋を抜け出す。その先には、自動車や人々が激しく行き交う大通りを命からがら渡り、窓掃除のクレーンに誤って乗ってしまったりと大冒険が待ち受けている。
あなたが留守中に一人ぼっちになった愛猫を思い描くと、ホロリと涙してしまうかも。女性監督らしい心遣いが嬉しい小品。
UPLINKから「アパートの猫」が収録されたDVDピクチャーブック「プチシアター VOL.2」も発売されていた。
http://www.uplink.co.jp/cgi-bin/shop.cgi?action=detail&cat_key=1&id=298
作者:elmikamino
更新日:2009年1月8日 15時0分
[人生][言葉]言葉が自ら弾け飛んで
託された思いに押しつぶされたような言葉に付き合うのに疲れ果てた時、言葉が自ら弾け飛んで、私の思いなんて、笑い声とともに部屋の空気や壁の中に消えていく、そんな言葉との儚い連帯のような感覚が呼び覚まされる時、幸せな気持ちになる。
かっぱ
えび せん。。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月8日 15時0分
[散歩][写真]ゴジュウカラ
曇。寒い。今年の寒の入り(小寒)は1月5日だった。大寒は1月20日。
裏山から樹をつつく小さな音が聞こえた。アカゲラならもっと大きな音をたてる。小さな影があちらこちらで素早く移動するのが見えた。目を凝らすと、青灰色の背中と眼を通る黒い線(「過眼線」というらしい)が印象的なゴジュウカラ(五十雀, Eurasian nuthatch/Wood nuthatch, Sitta europaea)だった。雀よりも一回り小さい。樹の幹を逆さに降りたり、横枝の下側を伝ったり、軽業師のような身軽で素早い動きに、カメラの目がなかなか追いつかなかった。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月8日 15時0分
[情報デザイン]カラーユニバーサルデザイン(CUD)
鮮やかな紅葉を味わえないのは仕方ないとしても、デジタルカメラのバッテリーの充電器の「充電中」(オレンジ)と「充電完了」(グリーン)のランプの色が識別できないときや、鉄道やバスの路線図の色の違いが識別できないときや、せっかく訪れたサイトやブログの背景色と文字色が混同して文字が判読できないときには、どこか腑に落ちないものを感じてきた。赤緑色弱の私にとっては「デザイン」の一環である一定の配色が肝腎の「情報」の伝達を決定的に阻害することがある。その気になれば、近くにいる人に尋ねたり、ブラウザの設定を変えたりすることなどによってある程度は対処できるものの、多くの場合その面倒を避けて、結局勘に頼ったり、情報を得るのを諦めることが多かった。
近年、日本国内では500万人を数えるといわれる色弱者に配慮したカラーユニバーサルデザイン(CUD)の動きが公共施設の各種の表示や製品のデザインにおいて少しずつだが着実に広がっている。2004年に設立されたNPO法人カラーユニバーサルデザイン機構(Color Universal Design Organization)の功績が大きい。略称はCUDO(クドー)。充実した内容の公式サイトはこちら。
「設立の経緯」には、色盲・色弱者をめぐる差別の構造と歴史を踏まえて、カラーユニバーサルデザインの火付け役となった自身色弱者である二人の生物学者による啓発活動から始まり、その地道な活動がやがて多くの賛同者、協力者を得て、やがて機構設立という実を結ぶまでの道のりが簡潔にしかも説得力をもって書かれている。カラーユニバーサルデザインに関する最新情報を提供するブログも開設されている。
参考:
作者:elmikamino
更新日:2009年1月7日 15時0分
[散歩][写真]キタキツネの足跡?
今朝、原生林の中にキタキツネ(北狐, Ezo red fox, Vulpes vulpes schrencki)のものと思しき足跡を見た。
そういえば、もう何年もキタキツネの姿を見かけない。この土地に引っ越してきたばかりの頃は自宅の周辺でも単独あるいは親子のキタキツネをよく見かけたものだった。裏山にねぐらがあるようだったが、おそらく山では十分な食料が得られなかったのだろう。人家が密集した場所でも、庭伝いに素早く走り抜ける姿をよく見かけた。夜の散歩の時に、暗がりでばったり出会う度に、風太郎は本能に火がついたように、全力で追いかけようとした。何度もリードごと引っ張られて転びそうになったものだった。この十年間、環境はそんなに変わっていないように見えるのだが、見えないところで大きな変化が起こっているのだろうか。少し調べてみたら、道東を中心にして、疥癬(かいせん)という皮膚病の感染によって激減した地域もあったという。ただし、感染の経緯に観光客の餌付けなどの人的要因も絡んでいるという説もあって、実情はなかなか複雑なようだ。20年ほど前に横浜から札幌に移住してきたカメラマンの大橋弘一さんがキタキツネとの出会いについて書いている。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月7日 15時0分
[散歩][写真]快晴
ひさしぶりに原生林、タンポポ公園まで歩く。
シラカバ(白樺, Japanese White Birch, Betula platyphylla var. japonica)
オオウバユリ(大姥百合, Giant lily, Cardiocrinum cordatum var.glehnii.)
エゾノコリンゴ(蝦夷の小林檎, Manchurian crab, Malus baccata var. mandshurica)
作者:elmikamino
更新日:2009年1月7日 15時0分
[メモ]松浦泉に導かれて
かつて詩人の吉増剛造にこう語らせた編集者の松浦泉が気になっていた。
もともと自分の詩はつねに蠢動(しゅんどう)し、突然変異のようにして生まれてくる異形の詩で、これまでずっと、それを無理矢理に詩集という形の楔(くさび)でかろうじてつなぎとめてきたようなものだ、と詩人は自らの歩みを振り返る。処女作から数えてこれ [2004年に出版された『天上ノ蛇、紫のハナ』を指す] が十八冊目の詩集になるが、これまでは必然的に、印刷文化との果てしない闘いの連続だった。「特に雑誌に掲載される場合は、締め切り間際に、稲妻が走り、火事場にいるような異様な瞬間が訪れるんです。ファックスが出始めたころは、それによって生まれる隙間を最大限に利用したりして、自分も担当編集者も悲鳴が出るような、大変なことばかりやってきました。でも、印刷所に出張校正に行っている非常時が、実はいちばん事件が起こる苛烈な時間なんですよ」(中略)「昔は馬みたいなものが走っていたとすると、いまはコガネムシみたいなちっちゃなものが疾走しているんですね。馬の速さと、虫の瞬間的にパッパッと動く機敏さの違いはあるけど、本質的なスピードは変わっていない。以前は主に水平や垂直の方向だったものが、隅に行ってみたり斜めに行ってみたり、あらゆる場所に瞬時に移動する、そういう運動になってきた。コンピュータ時代になって、ちょっと息ができるようになりました。そのせいか、頭の中は以前と変わらずに動いているんだけれども、作品が出てくる空気が少し優しくなってきたかもしれない」(中略)「デリダには共感することがいっぱいあるんです。彼は車を運転して大学まで通っていたんだけど、車の中に授業や論文のためのメモを貼り付けていて、運転しながらもメモを取り続けていたらしい。その感覚がものすごくよくわかる。車の前を何かがパッと横切るとか、事故寸前のような瞬間にも何かを書くということ。そういうことってあるんですよ。僕の表現でいえば、車内を虫が突っ走っていくような……」(中略)「もう書けない瞬間がくるのかと、むしろ楽しみにしていたぐらいだけど、どうもそうはならないんですね。小説にも行かず、評論を書くわけでもなく、異様なテクストを書き続けている。好奇心の働きがちょっと人と違っているのかもしれない。自分が生きようとすることに忠実で、それとともに出てくるテクストを書いている、そういうことなのかもしれない。でも必ずしも人間の視点で書かれたテクストじゃなくて、ある時は虫であったり、動物であったり、男のくせに女になってみたり……。次の壁に映るものの方へどんどん行っているんですね。おそらく狂気も含めたいろんなものを相手にしながら、少しずつ書き続けることの困難を克服してきたんじゃないかな。」
次の文章を読んで、ああ、松浦泉はこんな文章を書く人なんだ、と腑に落ちるところがあった。
アジアって、なんだろう? どんな場所? どんな人たち? どんな歴史のなかに、どんな現在が息づいているんだろう? いいえ、そうではなく。中国からインドへいたるおおきなひろがりをアジアと呼ぶけれど、 アジア、そのややこわばった言葉をほどいて、 さまざまな国のさまざまな名を呼び、 そこにある複数の表情を、もっともっと感じてみたい。 そのなかへ、「私」を、放ってみたい。 そこに生き、動いている、水。 「私のなかのアジア」は、たとえば、いま、そのなかにある。
2004年の篠原弘子との二人掛かりでの狸爺ゴダールへのインタビューでは、軽くいなされたようだが。
JLG:ところで、16対9という、日本発で世界中で採用されつつある画面サイズは、あなた方の目の形から来ているのでしょうか? 日本人は世界を横長に見ているということでしょうか。あそこにあるあの木を、日本人は私より横長サイズで捉えているとか?
聞き手:あなたはスタンダードサイズのほうがお好きなんですね。
JLG:私は棺や蛇のような横長サイズよりクレジットカードの形のほうがまだしも好きです。そういえば、いまあなた方は笑っていますが、日本には「箸が転んでも笑う」ということわざがあるらしいですね。これは大変おもしろいことわざですね。私自身は「スプーンが落ちても笑う」かどうかわかりませんが。
聞き手:日本では、アンナ・カリーナ時代、政治の季節、『パッション』以降と、大きく分けて3つの時代にそれぞれファンがいるような気がします。でも、あなた自身が変わったわけではなく、世界のほうが変化して、それがあなたの作品の変化に繋がったような気もするのですが。
JLG:その通りです。でも、世界は変わったけど、実はそれほど変わってもいない。2000年はそんなに長い年月ではない。20人のお祖母さんが生きてきただけの年月ともいえる。
聞き手:映画は世界を救えると思いますか?
JLG:それは聞いてはいけない質問ですね。
その篠原弘子のプレノンアッシュ(配給は昨年で止まったようだが)の公式サイトに掲載された、2005年12月2日に名古屋シネマテークで行われた狐男爵蓮實重彦の講演と、2006年3月19日にシアターイメージフォーラムで行われた蓮實重彦と青山真治の対談における蓮實の発言は、流石に狸爺を容赦なく背後から撃つような切れ味のいい内容だった。
すると、20世紀の問題を論じる度に、彼がことあるごとに口にする一つの名前にゆきつきます。シモーヌ・ヴェイユという名前です。シモーヌ・ヴェイユはユダヤ系のフランス人ですが、おそらく集団というものを信じることができない人でした。集団というのは必ず堕落する。ですからカトリック教団にしても、彼女は信じることができなかったわけですし、人民戦線の頃の社会主義的な連中のことも信じることもできず、そして殆ど自死同然にイギリスで餓死する、信仰を持たない信仰者のような人なんですけれども、これは他の人の言うことに耳を傾けない、ひたむきな、ただ自分の信ずることのみを信じて自死同然に破滅する人物です。このヴェイユ的な存在に対するゴダールの憧憬というか、自分もああなりたいけれども、ああならずに生き延びてしまったという悔恨の情のようなものがいつも出ているような気がします。
青山 なるほど。彼は常に孤立しよう、しようとしているわけですよね。どんな場に身をおいても必ず孤立する方向へ積極的に自分を持っていこうとする、一種の、何でしょう、……裏返しというか、マゾヒズムなのか。
蓮實 贅沢ですよ。
青山 贅沢なんですかね。
蓮實 ブルジョワジーの贅沢以外のなにものでもないと思います。
青山 孤独であることが贅沢となることが、彼にとって今必要なんですかね。ずっとそうなんですかね、あの人は。
蓮實 それが彼の唯一の自己同一性の主張だと捉えていたと思います。彼は最近、時々「私には仲間はいない」とかなんとか言いますけれど、いれば彼は排除すると思います。
青山 常にそれをやってきたわけですよね。
蓮實 その点、私は、彼はやはりこの世界には生かしがたい存在だという気持ちを非常に強く持っておりまして、そのためには観てやらなければいけないと、これもいささかマゾヒズム的な…
作者:elmikamino
更新日:2009年1月6日 15時0分
[生活][散歩][写真][神話]クロマチック
近所の家庭菜園の様子
病気によって人はその健康状態を悪化し、やがてそこから回復する。漁に使う毒と同じように、それは漸進的に効果を現す。どちらも生と死の中間にある状態を推移させるものであり、ルソーがギリシア語に再発見した意味に沿えば、これらはクロマチックな存在なのである。もし病気と毒が半音階的な存在ならば、人間の感覚にとってクロマチックな現象である虹と共通の属性を持つことになる。
港千尋『レヴィ = ストロースの庭』の第二のテクスト「写真と音階」より。064頁
ルソーがギリシア語由来の「クロマチック」に再発見した意味とは、多くの人にとって普段は分断されたに等しい色の知覚(「色彩」)と音の知覚(「半音階」)の間には実は両者をつなぐ、さらには生と死をつなぐ裏道(「中間」、「間隔」、「差異」)があるということだった。それはおそらく私が物心ついた頃にはとうに奪われ、その後色んなきっかけを通じて気づかされ、奪い返そうとしてきた、ある普遍的な認識であり、失われかけている「世界」への扉でもあるような気がする。
風邪で一日寝込んだ間に、苦しいながらも、思い通りにならないカラダをまるでのたうつ蛇のように感じたり、発熱のせいで感覚の麻痺した全身の皮膚が虹色に変化する発光体のように感じたりして愉快だった。
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作者:elmikamino
更新日:2009年1月6日 15時0分
[生活][写真]カムバック
おとといの夜、とうとう起きていられなくなり、寝込んだ。「風邪」とともに去りぬ、だった。昨日は一日中ほとんど寝ていた。今朝、目覚めたら、嫌な汗を大量にかいていた。熱は引き、体が少しは言うことを聞きそうだった。雪だるま3号はまだなんとか健在だった。よし、よし。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月5日 15時0分
[生活][写真]可愛くない雪だるま3号
近所ではお世辞ながら「すごい! でかい!」と評判の雪だるま3号は、家族には「可愛くない」と評判がよろしくない。可愛くない理由はたくさんあるようだが、鼻の高さが「鉄人28号」を継承しているからかもしれないと思っている。そんなことはさておき、雪だるま3号は、すこしとけて一回り小さくなったが、なんとか基本形を保っている。明日の朝まで保つかどうか、微妙なところである。
作者:elmikamino
更新日:2009年1月3日 15時0分
[アンソロジー]ジョナス・メカス・アンソロジー
Jonas Mekas, 1998
- ジョナス・メカスがコトラーに繋がる(2008年01月10日)
- Langasさんの「リトアニアへの旅の記録 2001年夏」:日記と本の境界の揺らぎ(2008年01月13日)
- Nowhere=Paradiseに対する違和感(2008年01月14日)
- 生命維持装置としての詩:『アイギ詩集』(2008年01月17日)
- 愛は不在そのものである(2008年01月18日)
- 映画と写真の「間」:ロラン・バルトとジョナス・メカス(2008年01月20日)
- リトアニアの悪魔とフィンランドの悪魔(2008年01月20日)
- 夢という記憶(2008年01月21日)
- ジョナス・メカス「森の中で 1」(2008年01月22日)
- 『セメニシュケイの牧歌』のクロライチョウ(2008年01月23日)
- 『メカスの映画日記』と『Movie Journal』(2008年01月23日)
- 追憶、失われることの意味(2008年01月24日)
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- 日記の整理という仕事(2008年01月26日)
- ジョルダーノ・ブルーノの素描を通して(2008年01月27日)
- リトアニア語とカント(2008年01月27日)
- キリストという思想(2008年01月27日)
- アブラハムかオデュッセウスか(2008年01月28日)
- 逃走=闘争の線(2008年01月29日)
- 前衛と後衛の間の距離(2008年01月29日)
- エジプトへの回帰の意味(2008年01月30日)
- 白い暗闇、黒い光 Jonas Mekas(2008年02月01日)
- ウォーホルとマチューナス:笑いの哲学(2008年02月02日)
- Warhol and Maciunas: Jonas Mekas(2008年02月03日)
- Jonas’ COOP Speech: Jonas Mekas(2008年02月03日)
作者:elmikamino
更新日:2009年1月3日 15時0分
















